100冊の本に挑戦 塚本逭史「呂布 猛将伝」

昨年秋口から仕事が忙しくて本は時々合間に読んでいたが、日記までは時間が取れなかったので、久しぶりに書いた。

塚本逭史氏は歴史小説家で、私は今まで氏の作品では「光武帝」「孫子」「仲達」「三國志 曹操伝」などを読んだが、今回の「呂布 猛将伝」はあの三国志ではあまりに有名な無敵の武人その人の物語である。

吉川英治の「三国志」には、あの関羽張飛でさえも一目を置かざるをえない天下無双の武将として登場するので、私にとってもその印象が深く影響して豪傑で破天荒な呂布のイメージが強く残っているのだが、しかしこの本の中にはあの勇猛果敢な呂布は登場しない。

ここでは呂布は妻や娘らの家族のことを気にする一般家庭人としての父として、また苦悩する男として描かれていて、戦場に躍起する姿は殆ど無い。
冒頭からして変な感じの場面が設定されている。(読んでもらえればわかりますが) 
これを面白いと捉えるかどうかは各個人の見解であろうが私には?である。

全編を通じてこの家庭人としての呂布の姿が淡々と描かれていて、いまいち盛り上がりに欠けるといった感が拭えない。

今までの呂布に対する先入観がそう感じさせているのかもしれないが、私的にはなにか消化不良のまま最初から最後まで読んでしまった、といった読後感であった。

100冊の本に挑戦 古田武彦「失われた九州王朝−天皇家以前の古代史−」

著者は日本思想史学者・古代史研究家で特に古代史では独自の古代史論を持っている。今回の本に書かれている九州王朝説も学会では有名らしい。

私等が小さい頃学校で習った日本の歴史が180度変わりそうな話が次々に出てくるが、それをきちんと検証しながら話が展開していくので私にはかなり説得力あるものに思えた。

古田説の主なものをあげると
1.邪馬台国ではなく邪馬壹国であり、首都は九州北部の今の太宰府、都督府である。
2.金印「漢倭奴国王」は、漢の直接統治の属国の王に与えられたもので、「漢」の「倭奴」の「国王」と読む。
3.日出ずる処の天子は聖徳太子ではない。
4.中国側の文献等に書かれていて中国が認めていた倭国とは、大和朝廷ではなく九州中心の国である。
5.天皇の称号を最初に用いたのは九州王朝であり、大和王朝の前に独自の年号を使っていた(九州年号)。
6.九州王朝は倭(ゐ)と呼ばれ、卑弥呼から白村江の戦いまで、延々と続いた。
等々である。

本自体結構厚くて読むのに一苦労するが、次々に展開される話にグイグイ引き込まれて、いつのまにか古田ワールドの虜になってしまった。

古代史は世界各地に残っている文献や言い伝え、考古学等から仮説を積み上げていくしかないが、この古田説も日本の古代史を考える上で重要な問題を投げかけていると思う。

100冊の本に挑戦 松本猛・菊池恩恵「失われた弥勒の手」

信州安曇野(アズミノ)で事故死した父の残した手がかりを元に、主人公である息子が安曇族の謎に挑戦しながら自分の家系の元を次第に明らかにしていく話になっている。

主人公とその友人と、旅先で知り合った韓国人の女性友達二人との共同作業で、かつてBC5〜3世紀ごろから日本海を自由に行き来して活躍していた海の安曇族と当時の百済高句麗新羅などとのつながりをテンポよく展開していく。

安曇野市にある観松院という寺にある「弥勒菩薩半跏思惟像」が第一の手がかりで、百済から日本に仏教伝来した時代にさかのぼり、日本と朝鮮半島との深いつながりや広隆寺弥勒菩薩など日本に伝わる仏像についてもなかなか興味ある内容になっている。

安曇-琵琶湖-太宰府-志賀島-対馬-釜山-白村江-ソウルなどを主人公は韓国友達と訪ねて回り、読んでいて読者も一緒に旅行してみたくなる思いにさせられる。

古代史ファンにはたまらなく楽しい本だと思った。

作者の一人松本猛氏は東京芸大美術学部芸術学科卒で世界初の絵本美術館であるちひろ美術館を設立した人である。

100冊の本に挑戦 陳舜臣「中国美人伝」

中国の四大美人とは一般的に 楊貴妃王昭君、西施、虞美人の四人と言われているが、この本の中にはこの内、王昭君と西施が含まれている。

西施は春秋時代の越の美女で、呉越戦争中和睦のために呉に嫁ぐが、あまりの美しさに呉王は政治に集中できず国を傾け越に滅ぼされてしまう。

王昭君は漢時代にこれも和睦のため匈奴に嫁ぐのであるが、もともと漢王室の宮中の女性の一人だったのが、宮廷の女性が多すぎてよく見もせず漢王が大した女ではないと思い込み決定した後実際の王昭君を見て大変悔しがったという美女であった。

他には漢時代の美女で詩の才能にあふれた卓文君、西晋時代の羊献容(ようけんよう)、唐時代の妓女で稀に見る詩人でもあり時の皇后と同性愛に落ちる薛涛(せっとう)、明時代の景徳鎮の磁器を紫禁城にたくさん残した萬貴妃(ばんきひ)、清時代の美女董妃(とうひ)が登場する。

彼女らのそれぞれの時には優しく優雅に、ある時は凄まじい生き様を陳舜臣氏は描いている。

初めて目にする名前もあるが、とても面白く最後まで一気に読める本だった。

100冊の本に挑戦 井沢元彦 「言霊(ことだま)」 祥伝社NONbook

文頭に次のようにある。

 コトダマとは何か、一言で言ってしまえば、それは「言葉と実態(現象)がシンクロする」「ある言葉を唱えることによって、その言葉の内容が実現する」という考え方のことだ。
 もっと簡単に言えば、「雨が降る」と言葉を口にすれば、実際に「雨が降る」という考え方のことである。

井沢元彦氏は日本の歴史小説作家・推理作家で、有名な『逆説の日本史』で独特の歴史観を披露している私の大好きな作家の一人である。
この本の副題には「なぜ日本に、本当の自由がないのか」とあり、これこそが作者が訴えたい本題である。

読めば読むほど作者のユニークな学説にぐいぐい引き込まれていく。
内容をいくつか書き出すと
 
 ハイジャック犯強行突破論が許されない日本
 差別語に対する「言葉狩り
 「縁起の悪い言葉」は「不幸」を招く
 誤訳の「日米構造協議」
 「事変」という重大なごまかし
 「平和よ来い」は雨乞いと同じ
 三島由紀夫は、なぜ自決したのか
 肉を食べる時、殺してくれた人に感謝しない
 教会結婚式の「誓いの言葉」の真意
 将来、憲法の「写経」が行われる!?


などとても面白い問題点が独特の観点から述べられている。


そして最後に述べられているのが

 ”その日クラシー”に明日はない


作者は心から日本の現在と将来を憂えている。

 

100冊の本に挑戦  関裕二 「浦島太郎は誰なのか」

作者は歴史作家で、奈良に通ううちに仏教美術に魅せられ、日本の古代史研究家になった人である。

浦島太郎は誰でもが知っている昔話に出てくる人である。

浜辺で助けた亀の背に乗り竜宮城へ連れていかれ、乙姫様と出会い宴会の限りを尽くした後、元の人間社会へ戻ると知らない人ばかりで、乙姫からもらった玉手箱を開けると700年後の世界になっていた、という話である。

この話が実は日本書紀に書かれていて、また古事記にも浦島太郎と思われる人物が登場するのである。
作者はこの浦島伝説がヤマト建国史に密接に関わっていると考えている。

神武天皇、神宮皇后、卑弥呼などの人物が登場し、住吉大社宗像大社や天岩戸、福岡高良山などとのつながりが次々に展開され、邪馬台国の所在地についての考察ももちろんあって、読んでいてとても楽しい内容になっている。

もっとも関裕二氏の作品は大体において、古代史の謎をいろいろとてんこ盛りに論ずるところが特徴であるので、論点がどこにあるのか分り辛いところがあるが、それでもサラッと気楽に読めるところがいいと思う。

Twitterは農耕文化に学べ

5月の連休も終わり、もう1ヶ月もするとまたあのうっとうしい梅雨に入る。
梅雨の時期になると、我が家の近くでは田植えが盛んになる。田んぼに水が入り田植えが始まるとなんかほっとした気になる。
日本の農業も最近は世界的な食料不足の観点から見直されているが、田んぼに稲の苗がずらっと並び、その苗が毎日毎日細かな手入れを受けながら 大きくなっていずれわれわれの主食になるのだと思うと、農家の方々の並々ならぬ努力に頭が下がる思いである。

ところでこの「農業」という言葉は英語でagricultureと書くが、語源はagriが「土、畑(field)」でcultureが「耕す」で、畑を耕すから農業と言われる。でもこの語の中にあるcultureカルチャーは今は普通「文化、教養」と訳されている。

えー、文化は耕すの? と考えてしまう。

これは「土地を耕す」から「人の心を耕す」となりこれが教養と考えられ教養を育成して文化が生まれると解されてきたらしい。なるほどと思ってしまう。

昔の話を持ち出して恐縮ではあるが、私は高校生のとき、英語の単語を覚えるのにいきなり覚えるのではなく、出来るだけ語源をもとに覚えるようにしていた。
例えば、エアポートairportは「air空のport港」だから空港で、ゆえにimportはimがin「中に」で港の中にで「輸入」、imの反対語がexで exportは港の外にで「輸出」、映画館でよく見るEXITとは「ex外にit行く(go)」で「出口」というようにである。もう数十年も前のことなので、あまり書くとボロがでるのでやめておこう。

最近私はブログというものを始め、さらにツイッターなるものも始めた。ここではいろんな人々がたくさんの情報を寄せ合って、またそれを見たり読んだりお互いコメントし合ってまた新しい情報が生まれてくる。
ツイッターの世界ではひとりひとりのつぶやきが、ある時は悲しんでいる人を勇気づけ、またある時は不安を持っている人の頼もしい話し相手になったり、また商売等のちょっとしたヒントを貰ったりと様々な効果を生んでいるようだ。
ツイッターのこのような広がりも一つの文化なのであろう。

最近社会のなかで人と人とのつながりの問題がよく言われるが、会社で同僚や上司と上手くいかなくなったり、あるいは今まで仲のよかった友達同士がいつの間にか疎遠になってしまうという事も、お互いの心の耕し方が不足したのが原因なのかもしれない。

英語でヒューマンhumanは「人間の、人間らしい」と訳されるが、否定を意味するinが頭についたinhumanは「思いやりのない」と訳される。
人に対して思いやりのないことをすることは、人間的でないという事だ。

人も文化もツイッターも、それを維持しかつ進化発展させるためには、我々人間の心を耕す努力が必要ということだと思う。