回想  老いた猫

「子猫ゆずります メス ペルシャ系雑種 大事に育ててくれる方へ」
この記事がわが地方紙の朝刊の「ゆずります」欄に載ったのは今からおよそ15 年前であった。
「これいいんじゃない、こねこよ。」妻が叫ぶと幼稚園生だった長男も「それにしようよ、行こうお母さん」とまだ見もしない猫にもう決定してしまったかの様に騒ぎ立てた。
我が家にはそれまでねこを一匹飼っていたのだが、それはもう大事に育てていたのだが、ある日突然いなくなった。そのため次のねこを探していた矢先の日曜日であった。妻が新聞に書いてある連絡先に電話をかけたところ、うちが一番早い申し込みだったらしく、二人は喜びながら車に乗っていった。
数時間がたち二人がわーわー言いながら帰ってきた。白地に黒が混じったかわいい子猫であったが、どう見ても普通のねこでペルシャとはいえないようだ。
「これのどこがペルシャなんだ?」と私がいうと「ペルシャ系って書いてあったでしょ、ペルシャ系雑種なのよ。遠いところでペルシャの血が混じってるのよ」「そうだよ、これでいいよ」と妻と息子が弁護する。
ペルシャ系雑種だったのか。わたしは毛もじゃのペルシャねこが来るものだと思っていたが、二人が納得しているならいいかと思った。かわいいのには違いないし。
こうしてその日から家族がまた一人増えた。
以来15年、このねこは私たちとずっと同居している。普通ねこは7-8年くらいが寿命らしい。なかには15年や20年も生きるのもいるらしいが、それにしても我が家のねこは長生きの部類にはいろう。
いままで何回も死にそうになったことがあった。近所のねこと喧嘩してかまれた傷口が化膿して下の骨が見えるくらいに悪化したり、走ってる最中に有刺鉄線みたいなのでおなかをパックリ切ってしまい、もう内臓が見えそうな傷を負ったこともあった。そのたびに獣医からは、もう助からないかもしれませんのでそのおつもりで、とかいわれてペット霊園を探したこともあった。
しかし未だに死にそうな兆候は全くなくぴんぴんして生活している。すばらしい生命力だ。すばらしい幸運の持ち主だ。といっても商売繁盛の招き猫としての能力は持ち合わせていないらしい。我が家は自営業なのにもっとこの猫にも頑張ってもらいたいのだが、えさばかり食べて繁盛を招いてくれない。えさも奮発してグルメ級のものをやっているのに、経費倒れである。
ねこも15歳にもなるとさすがに若いころの動きはできない。高い所へのジャンプも走る早さも明らかに若いころに比べると劣ってきた。部屋の中を歩いていても時々敷居や座布団につまづくことさえある。えさも昔ほどたくさんは食べない。
そんなときあの事件が起こった。
一昨年の12月、そろそろ年末の用意で人がせわしく動き出すころのことだ。いつものように、彼女が外に出たがったので玄関の引き戸を空けて出してやった。出たり入ったりしたい時彼女はいつも前足の爪でドアをなでてカサカサと音を立てて合図する。また用を足しに行ったのかあたりを見回りにいったのだろうと私たちは思っていた。30分ほどしてまた引き戸をカサカサいわせたので戸を少し空けてやった。すきまの向こうに彼女がいてじっと私を見ていた。すぐには入ってこない。なんかおかしい。そしてゆっくりとはいってきた。
「ぎゃー! だめー きたらだめー あがるなー こらー くるなー」私は叫んだ。
「どうしたの、なにー」妻がきた。
彼女の首から下が真っ黒なのだ。それも黒い液体がぼとぼとと垂れている。においもすごい。私にはすぐにわかった。どぶに落ちたのだ。目と目が合った。
「寒いから何とかしてよ」
「どじったな」私も目で言ってやった。
畳に上がろうとする彼女、上がらせまいとするわたし、どちらも必死だった。
妻も驚きの声を上げ、「タオルもって来るから上げたらだめよ」と言って奥に行った。がなかなか来ない。わたしは彼女に「お前を愛してるからこうやって頭を抑えてるんだよ」といったが通じていない。玄関の土間は泥水だらけになってしまっている。
やっと妻がタオルを持って来た。新しいタオルはもったいないから古いバスタオルを探してておそくなったらしい。お前もさほど愛情無いな、と思いつつ我が家は貧乏だからしょうがないか、などと心の中でつぶやきながら彼女を古いバスタオルでくるんで風呂場へ抱えて行った。私が汚れた玄関を掃除し、妻が風呂場で彼女を洗っていた。
「もういくらシャワーで洗っても洗っても黒いのがどぼどぼ出てきて大変だったわよ」
妻がまた別の古いバスタオルに包んで彼女を抱えてきた。やはり愛情薄いな、いやいや猫の毛が付くから仕方ないか。
石油ストーブの前にバスタオルを敷いてその上に彼女を置いた。彼女はさすがに疲れたのかおとなしくぺたんと頭を畳の上のタオルにつけてストーブの暖かさが気持ちよさそうにじっと目をつぶったままうごかない。シャンプーのにおいが芳しい。やっときれいになった。いやねこはほとんど自分で毛づくろいするのでいままであまり洗ってやらなかったので以前よりずっときれいになった。
じっとしている彼女を見ながら妻と二人で何でどぶに落ちたのか話し合った。歳とって運動能力が落ちたため今まで簡単に飛び越えてた小さな溝くらいのどぶ川を飛び損ねたのか、あるいは他の猫に追いかけられてあわてて逃げ回って滑って落ちてしまったかのどちらかであろう。
この事件以来彼女が外に行くたびに、「どぶにはきをつけるんだよ」と声をかけるようにしている。
聞こえているのかいないのか老いた猫は「ふーん」といった感じでさっさと出て行ってしまうのである。